江戸時代のあの人に学ぶ「継続は力なり」

  • 趣味

こんにちは、榎本です。

9月ですが、まだまだ暑い日が続いていますね。
(この原稿を書いた時点では、暑さが戻る予定です。)

暑いと言えば、今でも思い出すのが昔々、私が新入社員の頃、真夏、西新宿の高層ビルに飛び込み営業をしていた頃のことです。(法人向けPC販売の仕事でした)

高層ビルの上から下まで、毎日飛び込み、よく断られ、よく挫けました。が、さてさて、江戸時代、挫けたなんて決して言わないパワフルな人物がいました(やや強引に話題を誘導します、笑)

その人の名は、伊能忠敬(いのうただたか)。(敬称は省略させていただきます)

歴史の教科書にも出て来る有名人。「何をした人?」と問えば、「地図を作った人!」と多くの方が答えるくらい有名な人ではないでしょうか。

でも、

  • どうやって地図を作ったの?
  • 何年かけて作ったの??
  • そもそも何で地図を作ったの???

などなど、改めて考えると知らないことばかりです。というわけで、WAN55歴史部の私が伊能忠敬が成し遂げた偉業のお話をさせていただきます。

伊能忠敬という男

伊能忠敬、この方はコツコツ、コツコツ、と真面目に仕事をした方です。

伊能忠敬は17歳の時に婿養子として酒造業を継ぎます。場所は、現在の千葉県香取市です。伊能忠敬が継いだお店、婿養子になった当時、事業が傾きかけていましたが、伊能忠敬は見事に立て直します。そして酒造業の商売を続けること30年強、伊能忠敬は、突如、息子に家督を譲ると言い出し、続けて驚きの宣言をします。

「息子よ、俺ぁ、これから江戸に行って学問を学ぶぜ!」
「江戸で学問???何言ってんだよ親父。親父はもう50歳だよ」
「俺ぁ、天文学を学びたいんだよ」
「て、天文学~???」
(※会話の一部は私の想像です。)

ここから始まる伊能忠敬、第二の人生。

50歳で天文学の学校に入学します。

先生は伊能忠敬より20歳近くも年下。その先生も最初は戸惑います。今の時代でも50歳の生徒が入学してきたら戸惑いますよね。ましてや、人生五十年の時代です。周りの驚きはいかばかりだったでしょうか。しかし、伊能忠敬の真剣さに、先生も周りの生徒たちもだんだんと心を打たれていきます。

「この人、本気(マジ)だ」

伊能忠敬、実は、子どものころから空の星を眺めるのが大好きでした。星への憧れが50歳にして伊能忠敬を学問の道へと駆り立てたのです。やがて伊能忠敬は地球の大きさを知りたくなり、江戸から北海道(蝦夷)までを歩き、各地で星を見て、その角度の違いを測っていけば地球の大きさが分かるのではないか!と思いつきます。

しかし、この時代、江戸から北海道までの旅ともなるとそれなりの理由と、幕府の許可が必要です。そこで、江戸幕府には地図を作りたい!という名目でお伺いを立てると、幕府は「ほんまに出来るんかいな。予算出ないけどそれでもやるならええよ」と一応OKの返事。

伊能忠敬は答えます。「おっけー、自費でやったるわ!」

こうして伊能忠敬は江戸から北海道までの旅に出ます。

伊能忠敬の銅像1 伊能忠敬の銅像2 伊能忠敬の銅像3

伊能忠敬の銅像(富岡八幡宮)

伊能忠敬、地図作成の旅に出る

北海道に向けて旅に出た伊能忠敬。毎日、各地でコツコツ、コツコツ、歩測と測量器具を使いながら測量します。丁寧に丁寧に、コツコツ、コツコツ。

半年に渡る測量を終え、江戸から北海道南部までの地図を作り上げます。誰も見たことがない緻密な地図でした。北海道から帰ってきた後も、伊能忠敬は何度も測量の旅に出ます。やがて念願だった地球の大きさを弾き出すことにも成功します。

さて、地球の大きさを測ることを目的に作った地図ですが、あまりの出来の良さに幕府は大いにビビります。

「何やねん、この緻密な地図は!!!」
「はぁ??これ伊能くんってのが、ほとんど自費で作ったの???」
「おいおい、ちゃんと金、出して全国分作ってもらお」
(※会話の一部は私の想像です。)

伊能忠敬の作った緻密な地図に驚いた幕府は、伊能忠敬に対し国家事業として日本全国の地図の作成を命令します。

測量の旅を続けることになった伊能忠敬一行。

ある日、測量の様子を見た見物客は、「何だ、こんな単純作業で地図を作っているのか」と嘲笑しました。そうなんです。測量は単純作業の繰り返しなんです。やろうと思えば誰でも出来る事なんです。でも、普通は続かないんです。伊能忠敬が地図作りをする前にも、日本の地図は存在しました。しかし、その精度は伊能忠敬の作った地図とは比べようもない粗いものでした。単純作業の繰り返しが大きな成果を生んだのです。

コツコツ、コツコツ、と

地図作成のための測量事業は、なんと!17年にも及びました。各地を測量して記録した地図の枚数は200枚以上。しかし、これらを貼り合わせる作業中、伊能忠敬は病に倒れ、帰らぬ人となります。享年73歳。

残された弟子たちは誓います。
「伊能先生の死は地図が完成するまで公表しない!伊能先生の名でこの地図を世に知らしめるのだ!」
弟子たちもコツコツと作業を進めます。貼り合わせると微妙にずれが生じる地図と地図。少しずつ修正していきます。

コツコツ、コツコツ。

そして伊能忠敬の死から実に3年、かつてない精密な日本地図が完成します。

その名は『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』、またの名を『伊能図』。伊能先生の名で地図を公表したい、という弟子たちの願いも叶いました。

幕末、伊能忠敬の作った地図は外国人の手にも渡ります。地図を手に日本を測量した外国人たちは目を見張ります。
「な、何やねん、この正確な地図は!!!」
「日本人、やばくないか!!!この地図、どうやって作ったんや!」
「ジャパン、かっけー!」
(※会話の一部は私の想像です)
(※実際は、英語・仏語・蘭語等です)

外国人からも賞賛されます。

こうして伊能忠敬は、日本全土の地図を作成した男として歴史に名を残しました。

さてさて、冒頭の高層ビル飛び込み営業の話に戻りますが、何度も同じ会社に訪問していると、さすがに顔も覚えていただけて、少しずつではありましたが注文数も増えていきました。飛び込みを続ければ注文が増える。少しでも怠ると注文はとれない。

伊能忠敬の地図作りと私の飛び込み営業を同列に論じるのも恐れ多いですがコツコツとやるべきことをやる。当たり前のことを当たり前にやる。その繰り返しが成果を生む。どんな仕事も『継続こそ力』いや『継続のみが力』、ですかね。

畳、約250枚分の地図

畳、約250枚分の地図